読了:戦争における「人殺し」の心理学 (ちくま学芸文庫)/デーヴ・グロスマン
人は誰だって死にたくない。そしてほとんどの人は、人殺しにも、なりたくない。
そんな当たり前のことが、戦場でなら違うだろうと——殺されたくないから殺すのも平気だろうと、なぜか思われてしまいがちである、だがそれは間違っているのだ。ひとことでいえば、本書はその「殺人への忌避感は戦場でも人を支配する」という、当たり前だけれども無視されがちだった事実を語っている。丹念に証言を集め、先人の研究成果を並べ、理解へと導いてくれる。
どんな危急時であっても、自分が人を殺せるかと考えると、わたしは自信がない。力がどうとか、技術がこうとか、襲って来た相手に負けるだろうとかいうマイナス要因をとり除いたとしても、人を殺せるかどうか。
日常であれば、それでもまず問題はないことだろう。現代日本社会は、今のところ、そういう緩い人間でもそれなりに平穏に生きていける環境と考えてよさそうだ。
けれど、それが戦場なら?
著者は回答を用意している。実は、戦場でも同じことなのだ、と。
アメリカの南北戦争で使われた銃を回収しての、調査がある。ゲティズバーグの戦いの当時、使用されていたマスケット銃は、一発ずつ弾をこめて撃つ方式の銃であった。戦場から回収されたマスケット銃27,575丁のうち、90%が銃弾を装填済みであった。そのうち12,000丁あまりは二発以上の弾が装填され、6,000丁では三発〜十発以上の弾が装填されていたというのである。(p.71 より)
兵士がうっかり装填しまくった、とは考えられない。なにしろ三発以上に限っても6,000丁である。有意の数字と考えるべきだ——つまり、かれらは弾をこめ、撃つふりをしていたのではないか、というのが妥当な推測となるだろう。志願して兵士となり、敵を殺すつもりで戦場へ向かっていても、実際に自分が「人殺し」になる場面では、心理的規制がかれらを押しとどめてしまうのではないか。
同族殺しへの忌避感・嫌悪感は想像以上のものなのだ。新兵がまず案じるのは、自分自身の生命であり、身体的健康をそこなわずにいられるか、ということだろう。次いで、仲間の期待を裏切らずに済むかどうか。だが、戦場に出てみれば、いかに「人殺しにならずに済むか」が、重大な問題であることに気づく、というのだ。
その場ではよくても、戦争が終わり、残りの人生を過ごしていく内に、かれらは自分が人殺しであることを思いだしてしまう。忘れたはずの記憶は、夜ごと隠れ家から這い出して来て、心を食らう。お前は人殺しだ、お前が殺したのは人なのだ、誰かから生まれ、ひょっとすると故郷には妻子を残して来ていたかもしれない、安否を気遣われ、生きて戻ることを待たれていた「個人」を、殺してしまったのだと。
多面的なアプローチを持つ、周到に書かれた本で、非常におもしろかった。万人に一読を勧めたい良書。
同じ戦場で行動していても、戦闘行為に携わった兵士より、衛生班の方が、人命を救うという目的をもって戦場にいるため、精神的な負荷は軽くて済むようだというのも、なるほどと思わされた。そして、ふと今年日本を襲った震災のことを、思いだした。
あのとき、災害派遣された自衛隊や、「トモダチ作戦」に従事する米軍兵士ら、支援に向かう「兵士」の姿を報道で見て、かれらは戦争に行くのだ、とわたしは感じた。人の命を奪う戦争ではなく、救うための戦争だ。圧倒的な死と破壊に直面し、やはり心理的・精神的な負担は大きかっただろうと思う——だがそれでも、命を救うための戦いであることは、命を奪うための戦いとは決定的な差を生むのではないか。そうであってほしい。本書を読み終えて、まず連想したのは、そのことだった。
戦闘経験者と戦略爆撃の犠牲者は、どちらも同じように疲労し、おぞましい体験をさせられている。兵士が経験し、爆撃の犠牲者が経験していないストレス要因は、(一)殺人を期待されているという両刃の剣の責任(殺すべきか、殺さざるべきかという妥協点のない二者択一を迫られる)と、(二)自分を殺そうとしている者の顔を見る(いわば憎悪の風をあびる)というストレスなのである。
(p.133)